JBLでクラシックを聴く

ヤフーブログ終了で引っ越ししてきました。主にオーディオについてです。すでにオーディオ一式は断捨離で売り払ってしまいましたが、思い出のために引っ越しして残すことにしました。

今月のこの1曲(2005.9月)-ドビュッシー・ベルガマスク組曲 その1

みなさま

 暑かった夏もようやく終わり、喧しかった蝉の声もいつしか聞こえなくなり、夜ともなれば虫の声が集く季節となりました。
 おかげさまで、この「今月のこの1曲」も2周年を迎えることができました。

 秋9月といえば、お月見ですが、実際には長雨の時期と重なり、なかなか姿を見られない中秋の名月ですが、今年は、どうやらまずまずの天気で、きれいな月が眺められました。

 日本では古くから花鳥風月といって、月は、風趣の深い自然の代表ですが、ギリシャ神話の昔はともかく、キリスト教が普及して中世以来の西洋では、月というのは、あまりしげしげと眺めるべきものとはされていなかったようです。
 むしろ、かつてヨーロッパでは、長らく月は狂気や魔性のものを誘う、いわばまがまがしさを象徴するもののように思われてきたような話もどこかで読んだ覚えがあります。

 そうした雰囲気は近代以降になっても多少は尾を引いている部分もあるのでしょうが、さすがに啓蒙時代を経て、19世紀ロマン主義の時代になると、月がただ忌むべきものではなく、西洋においても、ようやく美的、詩的な対象としてクローズアップされてくるのでしょう。
 ドイツ・ロマン主義絵画のフリードリッヒやクラウゼン・ダールの月光や月夜をモチーフにした風景画などを見るとそれを感じますし、詩や音楽にも月が登場してきます。


 さて、ここに月の光を題材にした私の好きな1曲があります。
 ベートーヴェンの「月光」ソナタでは?って。あの曲もよい曲ですが、残念ながら、あの「月光」は、作曲者自身は全くあずかり知らぬ曲名です。
 え、そう、そうなんです。
 その曲とは、ドビュッシーの「月の光」です。



 実は、私は、本格的なクラシック音楽に、オーケストラ曲から入ったもので、ピアノ音楽には比較的遅く接したものですから、若い頃はどちらかといえばピアノ曲を苦手にしていました。(これまでの今月のこの1曲にも明らかにそうした偏りが反映されているようです。)
 もちろん、LP時代にもベートーヴェンモーツァルトの有名なソナタのいくつかは聴いていましたし、ロマン派の作曲家シューマンショパン、リストなどの曲も知らなかったわけではありませんが、その頃は、同じ聴くなら交響曲や協奏曲、大編成の声楽曲のほうが面白かった。
 で、自分で楽器が弾けるわけでもなく、なかなかピアノ音楽の世界が拡がらないままに過ぎてしまったのです。

 ところが、ふと何かの折に、たぶんFM放送だったとは思うのだけれど、ドビュッシーのピアノ伴奏の歌曲を耳にし、それ以来、急にフランスのピアノ音楽、それもオーケストラ曲の分野では当時さほど好んでいたわけでもなかったドビュッシーピアノ曲を聴きたくなったのです。
 それでも、すぐには聴く機会を得ず、さらにだいぶ経って、CD時代になってから本格的にドビュッシーを聴くようになったのでした。

 そこから、ラヴェルフォーレの作品に関心が拡がり、サティやスペインのファリャ、モンポウなども聴くようになったのでした。また、こうしたフランス近代のピアノ音楽を聴くようになってから、モーツァルトベートーヴェンシューベルトといった独墺系やショパンなどのピアノ音楽もより聴くようになり、バッハやクープラン以前の古い鍵盤音楽から、メシアン武満徹の現代ピアノ曲などまで手を広げて聴くようになったのですから、ずいぶん変わったものです。
 そのきっかけとなったのがドビュッシーの小さな作品だったというわけです。



 ご存知のように、ドビュッシーピアノ曲「月の光」は、ベルガマスク組曲という4つの小品からなるピアノ組曲の第3曲に当たります。
 そこで、以下は、この「ベルガマスク組曲」全体を一つの作品として取り上げていきたいと思います。


 クロード・ドビュッシー(1862-1918)は、フランス近代音楽を代表する作曲家です。しばしば彼の音楽を指して「印象主義」音楽という呼び方がなされますが、それはある意味、その代表的な管弦楽作品のいくつか(「牧神」や「海」など)には当てはまるかもしれませんが、その全てを印象主義という言葉で括るのは無理があり、誤解を招くもとかもしれません。

 印象主義かどうかはともかくとして、ドビュッシーがそれ以前の明確な調性音楽に対し、新しい和声・多様な音階を用いた音楽の扉を開いたことは事実です。
つまり、長調短調の調性音楽は頻繁な転調や半音音階を多用するロマン派の作曲家たちによって次第に拡張され、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」で無調の手前ぎりぎりまで行き着き、袋小路に入ってしまったときに、ドビュッシーは、古い教会旋法やアジアの五音音階、全音音階などを用い、新しい地平を開いたのでした。ドビュッシーが現代音楽の扉を開けたと言われる一つの理由です。

 もっとも、それは、音楽史の書物や専門的な音楽解説書に書いてあることで、私などは、その何%もわかりませんが。
 ただ、ややもわっとしたオーケストラ作品よりも、その歌曲やピアノ曲のほうに、私が何か新鮮な感銘を受けたことだけは確かです。


 ベルガマスク組曲は、1890年に書かれ、その後1905年の出版までに改訂の手を加えられた作品です。
 専門家からは、ドビュッシーのピアノ音楽としては、まだサロン音楽的な性格を残し、のちの「子どもの領分」(そう言えばこの曲集は中学の音楽の授業でも聴いたっけ)や前奏曲集など後期の傑作に比べると、やや低い評価のようですが(彼の同じ時期でも、管弦楽曲や歌曲では新しい音楽語法の成熟が早く見られるのに対し、ピアノ曲分野は遅かったとされる)、それだけにより聴きやすく、しかも後年のドビュッシーの音楽も十分に感じさせる佳曲、いな名曲だと私は思っています。

 曲名の「ベルガマスク」には、イタリア留学中旅行したベルガモ地方の記憶とか、ヴェルレーヌの詩に出てくる「宮廷的」という意味のことばに由来するだとか、諸説があります。が、私は、仮面とパッチワークのアルルカンベルガモの人々を象徴(揶揄)したイタリア喜劇の重要なキャラクターとしてのベルガマスクに、そして、ドビュッシーが歌曲に作曲したヴェルレーヌの詩「月の光」の中に、彼らが「楽しげに歌い踊りながら.....仮面の下に悲しみを押し隠している」とあるようなことなどに関わっているのでは、という説に強く惹かれます。


 ベルガマスク組曲は、「前奏曲」、「メヌエット」、「月の光」、「パスピエ」という4曲でできています。
 メヌエットパスピエも、18世紀の舞曲で、実際の音楽書法はまさしく新しいのですが、こうした舞曲名を用いるところが、20世紀にあって、F.クープランやラモーなど、栄光のフランス・バロック時代のクラヴサン音楽の伝統との繋がりを標榜したドビュッシーらしいところでしょう。
 全曲でも15分前後の小さなピアノ組曲です。

 前奏曲(プレリュード)は、冒頭、低音から立ち上がり、分厚い延ばした和音の響きから一転して高音部での細かい音符による珠を転がすようななだらかに下降するアルペッジョ(分散和音)的な旋律が繰り返される印象的な音楽です。ピアニスティックであると同時に、一種クラヴサンを思わせるような硬質な響きが個性的です。

 第2曲のメヌエットは、スタッカートな旋律と休符を多用した伴奏で、初めは少しおどけたような感じで始まりますが、すぐに宮廷舞曲に相応しいデリケートで雅な音楽が続きます。優雅に踊るための音楽というよりは、ダイナミックスと変化の大きい、やはり20世紀のメヌエット

 そして、第3曲目が「月の光」。この曲だけが、なにやら思わせぶりな標題を持っています。
 この曲集中、いなドビュッシーのピアノ音楽中、最も有名で、後世、他人による管弦楽曲版やシンセサイザー曲への編曲もあるポピュラリティの高い作品です。
 ピアノの美しい高音域が生かされ、ゆったりとした旋律が月の光が差し込み揺らめく情景を一編の音詩に描き尽くしているかのような名品です。もう何も言うことはありません。

 終曲はパスピエバロック期のみならず18世紀の交響曲や四重奏曲などの楽章にも使われたメヌエットと異なり、パスピエという舞曲はあまり馴染みがないのですが、バッハの管弦楽組曲第1番の終曲がこのパスピエでした。
 しかし、ここでのパスピエは、それとはかなり趣の異なる優雅な中にもきびきびとしたイメージ。
 これも、フランス古舞曲の形を借りて、古き革袋に新しき酒を盛った音楽か。この終わりのほうではなぜかドビュッシーがあまり好まなかったサン・サーンスを思い出す。