JBLでクラシックを聴く

ヤフーブログ終了で引っ越ししてきました。主にオーディオについてです。すでにオーディオ一式は断捨離で売り払ってしまいましたが、思い出のために引っ越しして残すことにしました。

今月のこの1曲(2007.1月)-モーツァルト・ピアノ協奏曲第9番 その1

みなさま

 本年もよろしくお願いします。
 年が明けても、今年は依然として暖冬の気配が改まらず、雪国でも積雪が少なく、一部のスキー場などでは困っているようです。
 これが年ごとの変動によるものならいいのですが、地球温暖化の進行の影響といったことなどが頭をよぎります。



 さて、今月27日はヴォルフガンク・アマデウスモーツァルト(1756-1791)の誕生日でした。
 昨年はモーツァルト生誕250年ということで、世界中でモーツァルトを記念する催しや企画が行われ、この今月のこの1曲でも何度かモーツァルトを取り上げました。
 そんな祝祭の年もあっという間に過ぎてしまったのですが、今年もやはり、年の最初の月はモーツァルトで明けました。1月最初に聴く音楽はモーツァルト、というのは、ずいぶん久しい習慣ですが、近年はますますモーツァルトの音楽が好きになっている自分を感じます。

 モーツァルトの音楽は、当時のあらゆるジャンルを含み、非常に幅広い曲種を網羅しています。交響曲ハイドンの100曲余には及ばぬものの5~60曲近い作品を残しており、協奏曲や室内楽ではさまざまな楽器を主役にした組み合わせを試みています。クラヴィーア(ピアノ)曲や歌曲の分野でベートーヴェンシューベルトの先駆とも言うべき成果を残しているのもモーツァルトです。
 そうした幅広く多数の作品の中でも、最も重要なのはやはりオペラと(教会音楽、)クラヴィーア協奏曲でしょう。
 このうち、オペラと教会音楽の分野からはすでに何曲か取り上げていました。
が、器楽の分野での最重要な曲種であるクラヴィーア協奏曲を取り上げる機会を逸していました。

 そこで、今回は、モーツァルトの誕生月にちなんで、彼こそがまさにこのジャンルの完成者とも言うべきクラヴィ-アのための協奏曲を取り上げたいと思います。(モーツァルトの時代は、ピアノという楽器が大きく発展をし始めた時期に当たり、今日の意味でのピアノはまだ完成していなかったので、それをも含むドイツ語のクラヴィーアとしましたが、煩わしいので以下では便宜上ピアノ協奏曲と呼ぶことにします。)

 そもそもバロック期に発達した協奏曲という曲種の中でも、鍵盤楽器のための協奏曲は、弦楽器や管楽器のための協奏曲に比べるとずっと遅く、J.S.バッハのチェンバロ協奏曲がその最初期のものとされていますが、モーツァルトの時代ヴィーンではバッハのそれらの作品は忘れられており、彼はバッハのチェンバロ協奏曲は知らなかっただろうと言われています。
 バッハ後もチェンバロ協奏曲は書かれていたのでしょうが、それらはまだ器楽の主流たる楽曲とはなりえなかったようです。
 そうした中、モーツァルトは、チェンバロからフォルテピアノに移り変わる時期のクラヴィーアのための協奏曲を数多く書き、その形式の完成者となったのです。彼の協奏曲こそは、古典派ピアノ協奏曲の規範であり、音楽史上、ハイドン交響曲弦楽四重奏曲の父だとするならば、モーツァルトこそはピアノ協奏曲の父とも言うべき位置にあるのです。



 神童として幼くして音楽に特異な才能を発揮したモーツァルトにとって、最も親しく得意とした楽器は、ピアノの前身のクラヴィーア(初めはチェンバロクラヴサンクラヴィコード、やがてフォルテピアノ)でした。
 モーツァルトの父レオポルトは、当時最も評価の高かったヴァイオリン教則本の著者であり、その教えを受けたモーツァルト自身、ヴァイオリンやヴィオラについても相当の腕前を持っていたと言われています(13歳でザルツブルク宮廷楽団の首席ヴァイオリン奏者となっている)。実際、ザルツブルクで宮廷音楽家としての活動においては、ヴァイオリンを弾くことが多かったようです。
 しかし、モーツァルトの関心はむしろクラヴィーアにありました。
 青年音楽家としての独り立ちの準備ともいうべきマンハイム・パリ旅行の途次、立ち寄った父の故郷アウクスブルクでは、有名なシュタインの最新のフォルテピアノに出会い、歓喜して、手紙に書いているほどです。

 後年、モーツァルトは、ザルツブルク大司教と衝突して、フリーランスの音楽家となってヴィーンに出たのち、まずはクラヴィーアの名手として、新しい協奏曲を次々と書いては発表し、一世を風靡することになるのです。

 しかし、今回取り上げるのは、それらヴィーン時代のピアノ協奏曲ではありません。
 ザルツブルク時代の後期、21歳になろうとしていた時期に書かれた1曲のピアノ協奏曲が、今月のこの1曲です。
 それは、ピアノ協奏曲第9番変ホ長調K.271。しばしば「ジュノム」又は「ジュノーム」というニックネームで呼ばれることの多い作品です。



 「ジュノム」協奏曲は、第9番と表記されることが多いのですが、実は、この番号は19世紀の旧全集による番号付けによるものです。
 が、そこで第1番から第4番とされた4曲は、実は他の作曲家の書いたクラヴィーアソナタ楽章をモーツァルトが協奏曲に編曲した習作でした。このため、今日モーツァルトのオリジナルのピアノ協奏曲は、第5番から第27番までの23曲とされていますので、この曲も9番目の協奏曲ではないのですが、曲名に定着しているため、今でもこの旧番号が使われることが多いのです。

 また、ニックネームの「ジュノム」は、この曲がフランス人の女流ピアニスト、ジュノム嬢の依頼により、又は彼女のために書かれたことに由来するとされてきました。
 このジュノムというピアニストについては、長い間素性がよくわからないまま、謎の女性とされ、その実在を疑う論評すらあったほどでした。
 しかし、2003年に発表されたミヒャエル・ローレンツの研究により、彼女の本名はルイーズ・ヴィクトワール・ジュナミということが判明したのです。
 彼女は、高名なフランス人舞踏家ジャン・ジョルジュ・ノヴェールの娘で、モーツァルトより7歳年上の1749年生まれで、父親がヴィーン宮廷に雇われたため、1767年に移住し、その翌年に富裕な商人ヨーゼフ・ジュナミと結婚したということです。
 モーツァルトは、このノヴェール親娘と遅くとも1773年のヴィーン旅行の折に知り合ったのではないかと言われていますが、ヴィクトワールは1776年末か77年初頭にヴィーンからパリに戻る途次、ザルツブルクに立ち寄り、この協奏曲を受け取ったのではないかとされています。
(のち、パリに滞在中のモーツァルトは、オペラ座の振り付け師となっていたノヴェールからの依頼でバレエ音楽「レ・プティ・リアン」を作曲しており、おそらくヴィクトワールとも再開したであろうと思われます。)

 いずれにしても、ヴィクトワールは当時ピアノの名手として知られていたということで、その技量と音楽性を熟知していたからこそ、モーツァルトはそれまでにない独創的で見事なこの協奏曲を書いたのだろうと考えられます。



 ピアノ協奏曲(第9番)変ホ長調K.271「ジュノム」は、1777年1月に作曲完成されたとされています。いまからちょうど230年前になります。

 さきほども述べたように、この作品はきわめて斬新で充実した内容を持っており、神童、天才であったモーツァルトとしてもそれまでになく大きな飛躍を成し遂げています。この曲は、独創性と完成度、そして何よりも感情の豊かさを持っている点において、当時のモーツァルト作品の中でも突出しているのです。

 それは、まず第1楽章(アレグロ)の開始に現れます。
 当時のというより、古典派時代の協奏曲では一般に、ソナタ形式の開始楽章においては、まず管弦楽による主題提示部があり、それから改めて独奏楽器が加わって提示部を繰り返し、そののち展開部、再現部となるのが普通であり、独奏者の腕の見せ所であるカデンツァは、再現部の後、コーダの前に置かれることが多いのです。
 それがロマン派の協奏曲のように、始めからいきなり独奏楽器が登場して華々しく演奏するという形はベートーヴェンの第4及び第5協奏曲に始まるというのが多くの音楽史家、楽曲解説者の説くところだったわけです。
 ところが、何と、すでにこの「ジュノム」協奏曲で、冒頭オーケストラの短い呼びかけにピアノ独奏が応答して曲を開始するのです。
 基本的には優美な性格を持ちながらも、勢いがつけばそのまま駆け出しそうな運動性と愉悦感も内に秘めた、その主題旋律もいかにもモーツァルトらしい個性を刻印しています。
 この曲は、後年ヴィーン移住後のシンフォニックなピアノ協奏曲と異なり、管楽器は少なく(各2本のオーボエとホルンのみ)、小編成の管弦楽ですが、独奏部分と管弦楽部分とが対比や掛け合いの妙を生み、協奏曲らしさ、醍醐味を満たしてくれています。