JBLでクラシックを聴く

ヤフーブログ終了で引っ越ししてきました。主にオーディオについてです。すでにオーディオ一式は断捨離で売り払ってしまいましたが、思い出のために引っ越しして残すことにしました。

今月のこの1曲(2007.3月)-テレマン・パリ四重奏曲集 その1

みなさま

 春も名のみか、3月の声を聞いてからはかえってしばらく寒い日が続き、暖冬に慣れた身体には真冬に戻ったようでしたが、ようやく桜の便りも聞かれる季節となりました。いかがお過ごしでしょうか。



 私が日頃よく聴く音楽は、古典派以降のものが多く、中でもモーツァルトは別格として、どちらかというとロマン派から近代の音楽をけっこう聴いています。それは、この拙文のシリーズでも明らかですが。
 しかし、体調や気分がすぐれず疲れたときには、情感の変化の激しいロマン派の音楽や、不協和音や無機的な響きに満ちた近現代の音楽というのは少々辛いかもしれません。
 そんなときには、バロック音楽もいいですね。

 それにしても、従前、バロック音楽というのは、一般に「さわやかな」、「肩の凝らない」音楽というイメージが強いような気がします。実際には、語源としての「バロック」の意味が「いびつな真珠」であるように、バロック音楽は必ずしも軽く爽やかなものばかりではありません。むしろ大胆で劇的な表現、おどろおどろしいものや辛気くさいものも少なくないのですが。
 やはり、かつてのNHK-FMの人気番組「朝のバロック」の影響でしょうか。コレッリやヴィヴァルディらに代表されるイタリアの器楽音楽などの明るく愉しい音楽がバロック音楽を代表するものとして人気を保ち、こうしたイメージをつくっているようです。

 まだ学生の頃、こうした「さわやかな」バロック音楽を好んでいた女子の友人がいて、よく薦められたのですが、その頃の私には、なんだか物足りない気がしていました。
 結局、私がバロック以前の音楽を聴くようになったのは、いわゆる古楽演奏が普及して、往事の楽器や奏法で聴くようになってからで、古典派ハイドンモーツァルト以降の音楽に比べると親しむのが遅く、まだまだなじみが薄いのです。(この今月の1曲でもバロックは少なかったですね。)



 バロック音楽最盛期の先進国といえば、やはりイタリアとフランスです。ルイ14世のフランスではイタリアに対抗して、リュリらによるフランス様式の音楽が尊ばれましたが、そのフランスでもクープランらが両国の様式の融合による音楽を試みていました。
 ドイツでも、初期にシュッツのようにイタリアで学びドイツ音楽の基礎を開いた作曲家がいますが、バロック後期になって偉大な作曲家バッハやヘンデルを輩出するドイツも、この時代、しばらくは音楽の後進圏に甘んじていました。まずはイタリアの音楽とフランス趣味の音楽が愛好され、やがてその両者を融合した新たなドイツ音楽の方向が模索されていったとも言えます。


 こうした中で、まさにイタリアとフランスの音楽とを融合し、逆に先進国フランスをはじめヨーロッパ中で人気を博した作曲家が現れます。
 ゲオルク・フィリップ・テレマン(1681-1767)です。
 テレマンの音楽は、ドイツ・バロックの作曲家の中で、先に挙げたさわやかで愉しいバロック音楽のイメージに最も適うのではないでしょうか。

 実際、テレマンは、当時の作曲家の中でも売れっ子ともいうべき活躍をした作曲家であり、生涯に、数十曲のオペラや受難曲、管弦楽から協奏曲、室内楽などの器楽曲を数百曲、教会カンタータに至っては千曲という膨大な作品を残したということです。あまりに膨大すぎていまだ完全にその作品の整理が終わっていないため、全貌が解明されていないというほどです。

 今日では、同世代のバッハやヘンデルに比べて演奏され聴かれる頻度はずっと低く、知名度でも及びませんが、当時の音楽界では、テレマンはバッハなどよりもはるかに高い名声と人気を持っていました。

 たとえば、バッハの伝記で必ずふれられるエピソードがあります。それは、バッハがライプツィヒの音楽家として最高の地位とも言える「トーマス・カントル」に就任したときの有名な話です。
 実は、ライプツィヒ市では、本当はテレマンにトーマス・カントルへの就任を打診したのですが、すでに「ヨハネス・カントール」としてハンブルク音楽界の中心で活躍していたテレマンに多忙を理由に断られ、仕方なく、より知名度の低いバッハで我慢した(しかもバッハの前にもう一人候補者があった)というのです。

 もっとも、テレマンはバッハがやってくる直前にライプツィヒに数年いて、後にバッハも指揮することになるコレギウム・ムジクムを創設するなど、ライプツィヒの音楽活動を活発にする活躍をしていました。
 また、テレマンとバッハとは親交があり、バッハの次男カール・フィリップ・エマニュエルの名付け親にもなっているほどなので、バッハをライプツィヒに推薦したのはテレマンだったのではないかとも言われています。



 テレマンは、オペラや教会音楽でも多くの作品を残していますが、彼の作品で今日よく聴かれているのはむしろ器楽作品でしょう。
 有名な「ターフェル・ムジーク」(食卓の音楽)3巻は、その集大成とも言うべきものです。そのほかにも数多くの管弦楽組曲や様々な楽器のための協奏曲、ソナタなどが書かれているようですが、今回は、その中から室内楽の名曲を取り上げたいと思います。

 それは、「パリ四重奏曲集」と呼ばれる室内楽作品からの1曲です。


 国際的な名声にもかかわらず、テレマンは、バッハに似てその生涯をドイツ国内で過ごし、ヘンデルのように外国に移って活躍したわけではありません。
 しかし、テレマンの作品は印刷譜を通じヨーロッパの各都市で愛好されていました。とりわけパリでは、当地を代表する高名な音楽家たちからもテレマンの音楽は高く評価されていました。
 そうした中、パリにテレマンを招いたのは、当時最高のフルート奏者で作曲家でもあったミシェル・ブラヴェらのパリ楽壇を主導していた音楽家たちでした。
 1730年にテレマンハンブルクで出版した四重奏曲集(今日、印刷譜の表紙に書かれた四重奏のイタリア語表記で「クァドリ」と呼ばれる)が、パリでも好評を博し、彼らからテレマンはパリへ招かれたのです。1737年のことでした。

 テレマンは、後年出版された本の中の自伝でも、次のように、この折のことを特に書き残しています。
 「私の長年の念願であったパリ旅行は、私の作品を気に入ったパリの何人かの演奏家の招きによって実現し、1737年に出発し8ヶ月を過ごした。パリでは、国王の認可を得て、新しい四重奏曲と6曲のソナタを出版した。フルートのブラヴェ氏、ヴァイオリニストのギニョン氏、ガンバ奏者のフォルクレ氏(息子のほう)、チェロのエドワール氏などの人たちによって、この四重奏曲がいかに見事に演奏されたか、言葉では言い尽くせない。」と。

 ここで、触れられている新しい四重奏曲こそが、1738年に出版され、今日、「パリ四重奏曲集」の名で呼ばれる美しくも愉しい6曲からなる室内楽作品です。(先の「クァドリ」の6曲もパリ四重奏曲に含める場合があり、その場合にはクァドリに対してこちらを「新パリ四重奏曲集」と呼ぶことがあります。)
 これこそは、テレマンがパリの一流の音楽家たちとの交流の中から創り出した傑作で、雅で洗練されたフランス趣味と新しいイタリアの協奏曲様式とを見事に融合させた音楽となっています。