和薬の最古の「大同類聚方」について
大同類聚方
内容は筆書き(くずし字)は無く、釈文と訳文です。
残念ながら、当時の重量は全国で統一が無く、
そのままの調合については、検討が必要です。
残念ながら、当時の重量は全国で統一が無く、
そのままの調合については、検討が必要です。
また、勅命とはいえ、家代々の貴重な薬品を報告するのは、
かなり抵抗が有ったようで「マユツバ」有ったようです。
しかし、当時、わが国の医薬品の状況を理解するには、必読書です。
かなり抵抗が有ったようで「マユツバ」有ったようです。
しかし、当時、わが国の医薬品の状況を理解するには、必読書です。
漢方医学の流入で崩壊の危機に瀕している事態を憂慮した平城天皇は、諸国の国造以下の有力な豪族・旧家や神社に対して伝承する古医方を提出させて、これを安倍真直・出雲広貞らによって類聚編纂させたものである。『日本後紀』によれば、大同3年5月3日に完成が天皇に上奏されたとされている。同年制定された「大同医式」によって、薬品の処方はこれに基づくように定められた。
江戸時代、国学の振興とともに和方医学が興隆すると、同書は和方家の聖典として考えられるようになった。ところが後になって当時流布していた諸本に対して後世の偽書ではないかとする意見が現れるようになった。和方家の中でも権田直助らは真書説、佐藤方定らは偽書説を唱えて論争となったが、近代以後も富士川游らが佐藤説を支持し、今日では現存する諸本は全て偽書(写本)で真本は散逸したものとするのが通説とされている。
槇佐知子による全訳精解本があり、槇はこの業績によって1986年に菊池寛賞を受賞している。
槇佐知子による全訳精解本があり、槇はこの業績によって1986年に菊池寛賞を受賞している。