JBLでクラシックを聴く

ヤフーブログ終了で引っ越ししてきました。主にオーディオについてです。すでにオーディオ一式は断捨離で売り払ってしまいましたが、思い出のために引っ越しして残すことにしました。

今月のこの1曲(2004.2月)ビゼー・交響曲第1番 その1

 皆さん、いかがお過ごしでしょうか。

 この冬は寒い日もあったものの、全体には暖冬だと言うべきでしょうか。特にこの2月は暖かい日も多かったように思います。
 その2月ももう過ぎようとしていることに気づき、あわてて「今月のこの1曲」を書いております。


 2月生まれの大作曲家には、ヘンデルロッシーニメンデルスゾーン、ベルクといった人たちがいますし、亡くなった人には、ワーグナーボロディンエルガーなどがいます。
 初演された曲も、ベートーヴェンの第8交響曲ロッシーニの「セヴィリアの理髪師」、ブルックナーの第9交響曲プッチーニの「蝶々夫人」など有名どころが少なくありません。

 しかし、今回は、同じ2月に初演された曲でも、ずっとマイナーな、でも、とても美しくはつらつとした、私の特にお気に入りの1曲を取り上げたいと思います。



 それは、ジョルジュ・ビゼー(1838-1875)の交響曲(第1番)ハ長調です。

 この曲が初演されたのは、1935年2月26日。
 作曲されてから80年目のことでした。


 この交響曲は、ビゼーの純粋な交響曲としては、残された唯一の作品です。
 作曲されたのは、1855年、まだビゼーは17歳!パリ音楽院でジャック・アレヴィの作曲クラスに在籍中に作曲されたものと伝えられています。
 アレヴィとともに、ビゼーを可愛がっていたグノーの交響曲を聴き、交響曲を書いてみようと思い立ち、わずか一月足らずで書き上げたらしい。
 グノーの交響曲は、まだ私は聴いたことがないのですが、大方の評では、直接のきっかけとなったグノーの曲よりも、こちらのほうが遥かに魅力的だということです。

 木管とトランペットが2管、ホルンのみ4本で、弦とティンパニという、シューベルトの後期作品より小さな古典的編成で、フォルムも古典派的標準の4楽章構成の作品です。
 モーツァルトロッシーニを好んでいたという若き日のビゼーへの音楽の影響を知るとともに、後年の色彩的な管弦楽法はまだ見られないものの、ハープを思わせる弦のピッチカートの多用やオーボエ、ホルンのソリスティックな扱いにその片鱗をうかがわせます。
 ともあれ、いわば習作で、作曲者の生前には初演もされず、しまい込まれていたものですが、とても魅力的な音楽に充ち満ちています。



 この曲が「発見」されたいきさつは、次のとおりです。
 作曲家の没後、この曲のスコアは、他の遺稿とともに、夫人によって、友人であったレイナルド・アーン(この作曲家も最近ピアノ曲室内楽のCDが出て、少し人気が出てきたようですが)に託したのですが、アーンはこの曲に気づかないまま、パリ音楽院の図書館に1933年に寄託してしまったらしい。
 こうして図書館に埋もれてしまう運命にあったこの曲でしたが、偶々、音楽院図書館の事務局長であったシャンタヴォアーヌが見つけたのでした。グラスゴー音楽学者でビゼーの評伝作者のパーカーがそれを知り、オーストリアの指揮者ワインガルトナーに報告し、これに興味を持ったワインガルトナーが、1935年スイスのバーゼルで初演したということです。
 以後、瞬く間に世界中に知られ、フランス初演は、翌年ミュンシュによって指揮されたそうです。


 この曲は、しばしば交響曲第1番と呼ばれます。
 しかし、ビゼーに、第2番以下の交響曲はない。
 実際には、第2番と第3番があったらしいと言われていますが、破棄されたのか、紛失したのか、現在は残っていません。
 ほかに、組曲「ローマ」という管弦楽曲があり、これが交響曲「ローマ」と呼び慣わされていますが、これが第2番というわけではないようです。
 ビゼーは、生前、書簡でこの「ローマ」を交響曲と呼んでいたそうですが、第1番とか第2番とは言っていなかったらしい。
 現在の第1番のことは本人はすっかり忘れていたというのが真相に近いのかもしれません。

 では、なぜ、現在はこの曲が唯一の交響曲なのに「第1番」と呼ぶのか、本当のところはわかりませんが、「ローマ」がやはりハ長調なので、交響曲ハ長調ではこれとまぎらわしいから、という説が一応有力です。(実際、近時は「ローマ」は組曲と表記されることが多く、それに従い、こちらは単に交響曲ハ長調と表記されるようになってきたみたいですが。)
 でも、将来、第2番や第3番が発見されることを期待して、第1番ということにしておきたい気がします。

 もっとも、ビゼー自身は、オペラ作家としての芽が出ず、困窮していた時期に、サンサーンスから、純音楽に戻っては、と進められた際、「自分は交響曲を書くようにはできていない。自分には劇場が必要なんだ。」と言ったと伝えられており、交響曲などの純音楽作品は自分の適性ではないと考えていたようです。
 たしかに、後年の「アルルの女」や「カルメン」こそが、ビゼーの真価を発揮した作品であることは疑いないのですが。それでも、この交響曲を聴くと、少し惜しい気も。


 それら、わずか36歳の短い生涯の晩年に書かれた諸作と比べたら、この曲は、あくまで、ほんの習作。
 音楽院の学生だったビゼーの若書きの作品で、たぶん作曲の技術的、形式的な面では未熟なところも多々あるのでしょうが、そうした欠点をはるかに上回る魅力が、この曲にはあります。

 青春の記憶とでも言うのでしょうか。
 とにかく、溌剌として、みずみずしく、弾むような、音楽に自然な流れがあって、途切れることがない、そんな感じです。

 初めてこの曲を耳にしたのは、おそらく10代の終わり近くか、学生時代であることは間違いないと思いますが、私自身若き日のことでした。以来、この曲は、私の大好きなお気に入りの作品です。
 私の好きな交響曲ベスト10に入れてもいいとまで思っています。