JBLでクラシックを聴く

ヤフーブログ終了で引っ越ししてきました。主にオーディオについてです。すでにオーディオ一式は断捨離で売り払ってしまいましたが、思い出のために引っ越しして残すことにしました。

今月のこの1曲(2004.1月)-モーツァルト・交響曲第38番 その1

みなさま
 いかがお過ごしでしょうか。

 先日来、なにやら、むつかしいオーディオ装置の話から始まり、ミュージカル「ラ・マンチャの男」やら、ソフィア・ローレン、はては日露戦争フィンランドシベリウスの関係、などなど、さすがに先輩達の話題は尽きず、面白かったですねえ。
 おかげさまで、このところ、体調を崩して元気の出なかった私も、久々に元気をいただきました。



 さて本日1月27日は、わが愛するモーツァルトの、ええと・・・248年目の、誕生日でした。
 というわけで、今月は、モーツァルトを取り上げることにいたしました。

 もっとも、1月は、ヴィーンゆかりのもう一人の大作曲家シューベルトの誕生日-31日-もあるのですが。
 だからというわけではないのですが、実は、私は、中学時代に音楽を聴くようになるまで、モーツァルトシューベルトの区別ができませんでした。
(たしかにどちらも姓の末尾がRTで終わりまぎらわしい?ちなみに別のヴィーンゆかりのコンビ、ブルックナーマーラーも、末尾がともにERで終わるという共通点が?!。)

 それはさておき、私は、お正月、年の一番初めに聴くのは、モーツァルトと決めています。
 それも、たいていは、ワルターによる後期の交響曲から。これは、もう学生時代からずっと続く慣例のようなものになっています。
 そもそもクラシックのレコードを買い始めた私が満を持して?中二の正月に買ったモーツァルトのレコードが、ブルーノ・ワルター指揮コロンビア交響楽団による後期六大交響曲集と銘打った3枚組LPのカートンボックスセットでした。爾来このレコードは、私の第一の宝物で、これはずいぶん聴きました。
 ちなみに今年最初の音楽は、第41番「ジュピター」でした。

 ですが、今回取り上げるのは、この曲ではなくて、その少し前、旧全集で第38番とつけられていた通称「プラハ」と呼ばれる交響曲です。
(ちなみに、蛇足ですが、モーツァルト交響曲は、41曲ではありません。この旧全集の中には第2番、第3番のように他人の作品と判明しているなど、モーツァルトの真作で入ってないものがかなりある一方、旧全集時代にはまだ知られていなかった曲もあって、今日では最大で60曲程の数字が挙げられているようです。)



 モーツァルト交響曲(第38番)ニ長調K.504「プラハ」。
 この曲は、モーツァルト交響曲の中では、珍しく?初演の記録がはっきりしています。
 1787年1月19日、プラハの歌劇場におけるコンサートで、この曲は初演されたと、その場に居合わせたプラハの教師ニーメチェック(のち最初期のモーツァルトの伝記作者となった)が書き残してくれたおかげです。
 これは、モーツァルトの歌劇「フィガロの結婚」が、ヴィーンではいまひとつだったのが、プラハで絶大な人気を博し、このため、この町に招聘されたモーツァルトが開いたいわば凱旋公演の回想です。
 このとき初演された交響曲が、今日「プラハ交響曲と呼ばれているこの作品です。

 有名な「ジュピター」もそうですが、モーツァルト交響曲に付いているニックネームはすべて、作者のまったくあずかり知らぬことです。
 その中でこの「プラハ」のほかにも、「パリ」、「リンツ」という都市の名を付けられた曲がありますが、このうち、プラハだけが、作曲地でなく初演されたという縁だけによるものです。

 しかし、他のどこにも増して、この、モーツァルトに最も好意的だった都市には、その名を冠される資格があると思います。
 ニーメチェックは、先のコンサートについて、モーツァルトの30分以上もの即興演奏を最高のクラヴィーア演奏だったと述べたあとに、こう書いています。
” 彼が、この機会に作曲した交響曲は、器楽曲の中でも最高の傑作である。それらは斬新な推移句や素早くて情熱的なパッセージに満ちているので、たちまち人々の魂を何か崇高なものを待ち受ける気分にさせるのである。 ”

 また、モーツァルト自身も、プラハからヴィーンのゴットフリート・フォン・ジャカンという親しい友人に宛てて、
” ぼくは当地で最高の好意と名誉を受けている。・・・・・プラハは実に美しい、気持ちのいいところだ。 ”
という手紙を残しています。

 私も一度だけこのボヘミアの古都を訪ねたことがあります。その折、まさに到着したその晩に偶然「プラハ交響曲を含むコンサートがあったのですが、ホテルのコンシェルジュがこの方面に疎くて、結局聴き逃してしまったのが、いまでも心残りです。
 それでも、翌日は、市内にモーツァルト記念館として残る、モーツァルトが2回目のプラハ旅行で滞在した友人ドゥーシェク夫妻の別荘「ベルトラムカ荘」を訪ねることができましたし、国民歌劇場で、オペラを見ることもでき、プラハはたしかによい町でした。



 また、この曲は、3楽章の交響曲で、4楽章制の曲に通常置かれるメヌエット楽章を欠いています。このため、ドイツでは「メヌエットなし」と呼ばれるそうですが、これは4楽章の交響曲が標準となった後世からの呼び名で、モーツァルト自身やそれ以前のシンフォニーには、3楽章のものはたくさんあります。
 なのに、この曲がことさらにメヌエットがないと注目されるのは、19世紀に一般に聴かれたモーツァルト交響曲が「ハフナー」交響曲以降の後期作品が中心であったため、ハイドン後期やベートーヴェン交響曲に見られないその構成がいろいろな憶測を生んだためと思われます。

 実は、その秘密を解く鍵が、モーツァルトの3楽章シンフォニー中でも、有名なもう1曲、同じく都市名を冠された「パリ」交響曲(第31番)にあるらしい。
それは、自筆譜やスケッチの考証的研究から、1786年の初めに、もともとは「パリ」交響曲の改作用に、「プラハ」のフィナーレが作曲されたのではと考えられるようになったからです。
 しかし、そのときは結局使われず、その年の11月から12月に、いまの1、2楽章が新たに作曲されて、まったく新しい「プラハ交響曲として完成したというのです。
 つまり「パリ」と「プラハ」は姉妹都市もとい姉妹曲だったんですねえ。
 モーツァルトが「パリ」の改作を放棄したおかげで、私たちはもう1曲のさらなる名曲を持つことができたというわけです。


 3楽章ということのほかに、この曲のもう一つの大きな特徴は、開始楽章の冒頭に緩やかなテンポの序奏が付いていることです。
 ハイドン交響曲では一般的なアダージョの序奏ですが、モーツァルトの曲ではむしろ珍しく、全部で60曲くらいと言われるモーツァルト交響曲中、こうした序奏を持っているのは、第36番「リンツ」、第39番とこの曲の3曲を数えるのみなのです。
 しかも36小節と、3曲中でも最も長い序奏を持っていて(「リンツ」は19小節、第39番は25小節)、これが非常に充実した序奏なのですね。

 ロマン派時代と異なり、ハイドンモーツァルトなど古典期のソナタ形式においては、序奏はその後に続く主部アレグロとは直接なんの関連も持たないことが多いのですが、この曲の場合は、序奏中で主部の動機を予告していることが注目されます。
 私は、モーツァルトは、ベートーヴェンより早くに、ロマン派の先駆となっているのではないかと思っていますが、この序奏と主部の密接な連関、クラヴィーア協奏曲の書法の中で培われた木管が独奏的に活躍する、当時としては破格に斬新で難しい管弦楽法ソナタ形式の中での対位法のめざましい使用など、いずれも、後の19世紀のシンフォニストたちに大きな影響を与えたのではないでしょうか。

 難しいと言えば、この曲から、モーツァルト交響曲は格段に難しくなります。
もともと18世紀のシンフォニーというのは、シンフォニア=序曲の意のとおり、主としてコンサートの開始と終わりを告げるファンファーレが大きくなったような役割、機能を持った楽曲でした。従って、シンフォニーは、それほど複雑でなく、壮麗で輝かしい音調の音楽であればよく、後世のわれわれが抱く器楽の最高形式といったイメージは、ベートーヴェン以後のものです。

 しかし、交響曲の歴史も、いきなりベートーヴェンでそうなったわけではなく、18世紀の終わり近くになって次第に単なるファンファーレ、演奏会の額縁的な役割では済まない性格を持つようになっていくわけですね。交響曲のその大きな進歩に貢献したのが、モーツァルトの後期の作品群であり、中でもこの「プラハ」と、最後の3大交響曲(第39番、40番、41番「ジュピター」)こそは、18世紀交響曲の金字塔と言えると思います。